みことば
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを 持つためである。(ヨハネの福音書 3章16節)
あの分厚い聖書が私たちに伝えようとしている最も大切なメッセージを一言
で要約するならこの御言葉が最もふさわしいでしょう。
天地万物の創造主である神様が、そのひとり子である
イエス・キリストを世すなわち私たちの住むこの地上に遣わしてくださいました。
イエス様は、まったく罪のない方でしたが、十字架にかかって死なれま
した。それは、神様から離れ、神様に背を向けて滅びへの道を進んでいる
人々が本来なら受けなければならない刑罰を身代わりとなって受けてくだ
さったのです。ちょうど、敵に狙われたとき雛を守るために親鳥が傷ついた姿をして敵の前に出て行く
ように、イエス様はあなたを愛するがゆえに身代わりとなって命をも捨てて
くださったのです。
それだけではなく、イエス様は死を打ち破って蘇ってくださいました。
そして、イエス様が神のひとり子であり私たちの救い主であると信じる
者には、その罪を赦し永遠のいのちを
与えてくださるのです。
●創造主である神様
初めに、神が天と地を創造した。(創世記 1章1節)
聖書の一番最初に書いてあるのがこのみことばです。私たちの住むこの地球も、
いろいろな動物や植物、太陽、月、星、この宇宙にあるもの全てをお創りになった方、
この方こそ唯一の創造主なる神様なのです。
私たちの周りにある物、例えば自動車や家は、誰かが設計し造った人がいることは誰も疑いません。
あなたの家がある朝おきてみたら偶然に出来あがっていた等と言ったら気が狂っていると思われる
でしょう。巧みに出来ているものには必ずそれをデザインし作った人がいるのです。
地球は、正確に1日に1回自転しながら1年をかけて太陽の周りを回っています。
地球と太陽の距離はちょうど私たちが住むのに最適な温度になる距離に保たれています。
実に神様がこのようにデザインしてくださったのです。
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●聖書
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
(テモテへの第2の手紙 3章16節)
聖書の一番古い部分は今から3400年前の紀元前1400年頃に書かれました。
一番新しい部分は紀元90年頃書かれました。
「創世記」から「ヨハネの黙示録」まで実に1500年の歳月がかけられています。
その著者は、身分も職業も学識も異なる40人ほどの人たちですが、
相談したり連絡を取り合ったわけではないのに、その内容は完全な統一性を保ち、
主題が一貫しています。まさに神の霊感すなわち聖霊の働きによって書かれたのです。
このように古い時代に書かれた書物でありながら、今日でも年間1940万冊(1996年)もが
印刷出版されています。まさに永遠のベストセラーなのです。
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●イエス・キリスト
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも
従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、
ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、
父なる神がほめたたえられるためです。
(ピリピ人への手紙 2章6−11節)
クリスマスって何の日か知ってますか。そうです、イエス・キリストの誕生日です。
今から2000年も前に生まれたこの人を、世界中の人が祝うというのは、考えてみれば不思議な
ことです。
このイエス・キリストについては、旧約聖書に繰り返し預言されていました。
そして、預言のとおりにこの地上に来られ、病人を癒したり、死人を蘇らせたり、多くの力ある
奇跡を起こされましたが、最後は十字架にかかって死なれました。
しかし、十字架の死も預言されていたことなのです。
全て神様がご計画されたとおりに行われました。それは、神の御子であるイエス様が、人となって
この地上に来てくださり、父なる神の御心に従って歩んでくださったからです。
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●十字架
皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、
あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、
神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
(使徒の働き 4章10節)
十字架のネックレスやイヤリングを付けている人をよく見かけます。
でも、十字架はローマ時代の最も残酷な死刑の道具の一つだったのです。
なぜそんなものをアクセサリーに使っているのでしょうか。
それは、イエス様がこの十字架にかかって死なれたからです。
それも、本来なら私たちが受けなければならない罪の裁きを、
私たちの身代わりとなって受けてくださるために。
イエス様は、ご自分の命をも惜しまず捨ててくださるほどに
私たちを愛していてくださるのです。
そして、イエス様はただ死なれただけではなく、死を打ち破って
蘇ってくださいました。そして信じる者の心の中に住んでくださり、
守り導いてくださいます。
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●愛
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
(ローマ人への手紙 5章8節)
人は、愛なしには生きていくことができません。誰かに愛されていること、また愛することを
望んでいます。しかし、私たち人間の愛は、条件付きの愛です。相手が私を愛してくれるからとか、
役に立つから愛するという性質があります。条件が満たされなくなると愛もさめていきます。
神様の愛は、そうではありません。神様は私たちを愛するがゆえに人となって地上に来て
くださいました。それがイエス・キリストです。
イエス様は、逆らい続ける私たちの身代わりとなって十字架についてくださり、
本来なら私たちが受けなければならない罪の罰を受けて、
いのちをも捨ててくださいました。
そしてイエス様の愛は永遠に変わることがありません。
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●罪
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、
私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ人への手紙 6章23節)
盗み、殺人などいろいろな罪があります。そんな罪は私には関係ないと思っている人も
いらっしゃるかもしれません。しかし、聖書は全ての人が罪びとであると言っています。
ねたみや、よこしま、淫らなことなど心の中の思いも罪なのです。そしてこれらの思いを
持つものは誰でも条件さえそろえば犯罪者となってしまう可能性があるのです。
この罪の問題を突き詰めると、私たち人間が神様から離れ的外れな生き方をしていることが
原因であると聖書は教えています。そして私たちが清く正しく生きようといくら努力をしても
この罪の性質をなくすことはできません。
聖なる方、義なる神様は罪を裁かなければなりません。
しかし、神様は私たちを愛してくださるがゆえに、この罪の裁きを
私たちにではなくイエス様にくだされました。そして、イエス様が救い主であると
信じる者には、その罪を赦し永遠の命を与えるという不思議なすばらしい救いの道を
備えてくださったのです。
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●永遠のいのち
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
(ヨハネの福音書 17章3節)
人間は、歳をとっていつか必ず死にます。そして、死後にさばきを受けることが定まっています。この裁きにおいて罪のあるものは永遠の滅びへと進まなければなりません。聖く義なる神はどんな小さな罪も受け入れることはできません。私たちには自分自身の罪の代価を支払うことができません。私たちは永遠に滅びるしかないのでしょうか。そうではありません、イエス様は、私たちを愛していてくださるゆえに、私たちが滅びる事を望まれず自ら身代わりとなって十字架についてくださり私たちの罪の代価を支払ってくださいました。罪のない神の子のイエス様にしかできない事です。神はイエス様の十字架の犠牲を認めてくださり、イエス・キリストを救い主と信じる者には罪を認めないと宣言してくださるのです。
それだけではありません。イエス様を信じたとき聖霊が私たちの内側に住んでくださり、神様との交わりが回復されます。そのとき私たちは新しく生まれ変わり永遠のいのちをいただいているのです。
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